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阿波公方略史
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室町の息吹今も 資料館展示品 香る京文化 阿波公方略史義冬公の像.jpg (14110 バイト)
阿波公方系図.jpg (37593 バイト)
  室町幕府の全盛期をつくりだした足利義満か没した後は、幕府の威勢にかげりがみえはじめた。とりわけ、京都を戦場とした応仁の乱(1467〜1473)以後は、幕府の権威がおとろえ、群雄割拠の戦国時代に入った。
  当時、十代将軍義稙は、幕府の管領細川高国の専横にあい、淡路の沼島にかくれた。ついで阿波の撫養に移り、養子義冬に上洛の夢を托して病没した。
  義冬(17歳)は、細川晴元(14歳)とともに阿波の守護細川持隆とその臣三好元長に擁せられて上洛の途につき、和泉の堺に上陸した。これに対して京都の細川高国は、摂津の天王寺で防戦したが、やぶれて尼崎で自刃するにいたった。京都の細川氏の家督をついだ細川晴元は、家臣のざん言を信じて功臣三好元長を堺の顕本寺で攻め滅ぼした。義冬は、この時淡路の志築へ落ちのびてきた。
  これを知った阿波の守護細川持隆は、天文三年(1534)に義冬を阿波国平島庄に迎えた。これが初代阿波公方(平島公方)義冬である。那賀川河口の平島庄は、足利氏とゆかりの深い天竜寺領であり、近畿との海上交通の便もひらけ、上洛の機をうかかうには絶好の位置にあった。
  義冬は平島の西光寺に住んでいたが、その子義栄・義助の代になって永禄年中(1558〜1569)藤原清兼の平島壘を修築して、ここに移り住んだ。この館(やかた)を、人びとは「平島館」「公方館」と呼んでいた。
  義冬の子義栄は、ついに好機を得て、三好三人衆や篠原長房に擁せられて上洛の途につき、摂津の富田庄に入り左馬頭に任ぜられた。次いで永禄十一年 (1568)二月、義栄は宿願の征夷大将軍に任ぜられて、十四代将軍となった。しかし、このよろこびもつかの間のことで、戦国の風雲児織田信長が足利義昭を奉じて上洛するに及び、支持者の三好三人衆敗れ、再起を期して阿波へ下向したが、撫養で病没した。
  義栄の弟義助は、平島館で上洛の機会をうかがっていたが、京都・大阪付近て転戦していた三好三人衆が敗れ、兵庫・堺付近で信長の軍と戦っていた篠原長房も阿波へ帰り、きびしい状勢の中で如何ともしがたい有様であった。
  さらに、土佐の長曽我部元親の阿波侵攻にあい、阿波細川氏に代った三好氏も、天正十年 (1582)中富川の決戦て潰滅するに及び、阿波公方義助は頼るべき勢力もなく、自ら力を持たぬ悲しさで、上洛の野望ははかなくも崩れていった。しかしながら長宗我部元親は、公方の伝統的権威には一指もつけず、公方の所領三千貫を従来通り保証したのてあった
  やがて、安土・桃山時代も過ぎ去り、江戸時代に入った。藩主蜂須賀氏は、公方の禄を百石内外にへらし四代公方義次を平島又八郎と称えさせ、以後歴代にわたって平島姓を名乗らせるなと、公方の権威を引き下げる政策をとった。このような藩主の施策に対する公方の不満は大きいものがあった。悶々の情を詩歌に托し、学問・文化の面で名を後世に残した公方もみられる。
  八代公方義宜は学問好きで、京都の名儒島津華山を招き、子弟を教育する学問所「栖竜閣」を設けた。華山の教えをうけた子弟の中でも、九代公方義根は漢文学に優れた才能をあらわし、栖竜閣詩集(棲竜閣詩集)に多くの秀作を残している。
  義根は、有名な京都の文人江村北海、藩の儒者那浪魯堂をはじめ多くの学者と交わり、平島館には大仁錦水・信行寺才玄・高橋赤水などの地元の文人等が出入りして、天明・寛政・享和の頃には阿波国南方地域における漢文学の一つの中心地となっていた。
  しかしながら歴代公方の藩に対する不満は、次のことが導火線となり九代公方義根にいたって爆発した。すなわち義根は、京都の名門を介して藩主に増禄を求めたが受け入れられず、憤激のあまり文化二年(1805)阿波を去って紀州に行き、さらに京都へ帰っていった。約270年にわたって、阿波国平島の地に居を構えた阿波公方(平島公方)の歴史はここに終わりをつげた。
  現在、公方の住んだ平島館の建造物はこの地に残されてはいないが(一部は小松島市地蔵寺・阿南市吉祥寺などに移建されている)、那賀川町古津の公方館跡に町立歴史民俗資料館か建てられ、公方関係の史料も展示されている。また那賀川町赤池の西光寺には、室町幕府十代及び十四代将軍をはじめ歴代公方とその一族の墓石20数基が、風雪に耐え苔むして静かなたたずまいをみせ、往年の面影をしのばせている。
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